フリーペーパー ラビアンローズ 世田谷ボロ市

0801 表紙.jpg

| HOME | 武家屋敷門 | 世田谷ボロ市 |

更新日 2008-06-05 | 作成日 2007-10-23

世田谷ボロ市

都指定無形民俗文化財に指定された伝統の市。
遠く安土桃山時代から430年もの間、根強く続いているボロ市を取材した。

世田谷ボロ市鉋・鋸・ノミボロ市という名はその起源に由来する。約430年前、時代は戦国時代。当時関東を支配する小田原城主北条氏政が、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に楽市を開いた。当時は楽市、もしくは毎月一の日と六の日に月6回開かれていたので
六斎市とも呼ばれていたが、江戸時代に入り、楽市楽座の制度が終焉を迎え、また世田谷城廃止やそれと共に城下町である世田谷新宿の衰退により、年末に近郊の農村の需要を満たす農具市・古着市・正月用品市として変化を遂げた。当時、草鞋にボロ布を編みこむと何倍も丈夫になると世田谷ボロ市江戸切子。1,000円いう事で、材料となるボロ専門店が十数件も出店し、その殆どが午前中に売り切れになるほどの人気を博したという。そんな背景があるからか、何時からかボロ市と呼ばれるようになった。
市で安くボロが売られている頃、近隣の大部分を占める農民にとって農閑期の夜なべの草鞋作りは大切な現金収入を得る副業だったらしく、材料であるボロの人気は明治中頃まで続いた。その後ボロに変わり、農具・日用品はもとより、昭和の初めにかけては見世物小屋や芝居小屋まで出店するほどの世田谷ボロ市二宮金次郎のミニ銅像多様化し、多い時には二千店にもなる程だった。近年では場所も縮小し、出店数も六~七百店に減少したが、玩具・装身具・植木類・骨董等、出店の幅も一層広くなり盛り上がりを見せている。
江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていた世田谷。江戸と南関東を結ぶ中間市場的な役割として大繁栄したであろうこの場所もすっかり様変わりしたが、年末年始の歳の市として形を変え、一日二十~三十万人もの賑わいを見せる伝統行事として現在に受け継がれている。
世田谷ボロ市千代田の火のし。炭を入れて使う。



ボロ市初日、世田谷ボロ市手作りのお面渋谷から田園都市線に乗り換える為三軒茶屋で降り、世田谷線の改札に向かうと「ボロ市開催」のアナウンスの声がする。混雑を予想し、午後半ばに向かったのだが、二両ある世田谷線はほぼ満員。車内で「ボロ市は上町駅で降りて下さい」のアナウンスに従い降りると、会場の賑わいが見えてくる。
世田谷通り沿いの会場の入口からは、初詣のような人混みと熱気、物売りの喚声で溢れかえっている。出店のスペースが筵一枚または戸板一枚分だった江戸から明治にかけては、正月用品・日用品・農具が中心だったそうだが、現在となっては屋台も各種出ていてさながら祭の縁日を彷彿とさせる。野良着繕いや前述した草鞋補強用のボロ・古着・荒物(火鉢・桶ざる類)・下駄・雪駄・鋤・釜・カマ・世田谷ボロ市鋤が殆ど売却済み斧・鶴嘴、食品では穀物・豆類・どぶろく・すし・駄菓子・おでん・煮しめ等の店が並び、様々な見世物や居合抜もあり、商品の売買と共に娯楽の場として親戚・知人の旧交を温める祭の色合いも呈した江戸時代。近年ではその面影は、着物や帯等、古着の反物や古銭・農具などに見られる程度。とはいえ、時代物の食器や棚・仏具なども多数見られ、掘り出し物はないかと探しに来る見物客も50代以上が非常に多い。親子連れも多く、何せラッシュ時のターミナル駅のような混雑ぶりで、一軒一軒出店を取材していくのに閉口した。
世田谷ボロ市反物がずらり見回してみると、古着を中心とした衣料系が目立つ。また、飲食を中心に商店街からの出展も見受けられ、店舗同士での会話が弾んでいる姿もあちこちで見られた。商品が多様化している昨今、ビジネスやコミュニケーションがデジタルに変化した現代でも、時代は違えどそれこそ形を変え品を変えて伝統は受け継がれているのだと確信した。古物商がこれだけ多く品揃えも豊富な「ボロ市」。アナログでノスタルジックなボロ市は、古き良き時代に触れたい感覚を呼び覚ますと同時に、年を重ねる毎にスローライフを送りたい晩年の世代に支持されていくであろう。